【日本の歴史 鎌倉時代】武士の時代の到来~源氏3代と執権北条氏と元寇 まとめ
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平氏を滅ぼした源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、源氏の勢力圏の中心である鎌倉に幕府を開き、朝廷に代わって治世を始めましたが、そんな源氏も僅か3代で絶え、執権制度の下、北条氏が政治の実権を握る事になりました。新政権は源氏と違い、御家人同士の結束が磐石でないために、一族内での殺し合いや御家人同士の争いが続き、外敵の侵攻を受けるなど、まさに地獄のような時代が幕を開けるのでした。
【日本の歴史 鎌倉時代】北条時政、執権となる
西暦1203年(鎌倉時代)、建仁3年に北条時政が執権職に就きました。北条氏は源実朝を担いでいましたが、鎌倉幕府2代将軍頼家を担ぐ比企氏との間で対立が生じ、島津忠久、比企能員の乱が起こりました。連座制のもと兵力を集めた北条軍はこれを討ち破り、それぞれ守護職 ・地頭職を没収してしまいました。
【日本の歴史 鎌倉時代】源頼家、北条時政に誅殺される
比企氏を追い払った北条時政は西暦1204年(鎌倉時代)、文久1年に後ろ盾のなくなった2代将軍源頼家を誅殺しました。
そうして御しやすい文人肌の実朝を3代将軍に据え置いたのです。
【日本の歴史 鎌倉時代】北条時政失脚、子の北条義時が執権に
西暦1205年(鎌倉時代)、文久2年に北条時政の数々の陰謀が暴かれ、執権の座を追われてしまいました。代わりに時政の子である義時が執権職に就きました。
【日本の歴史 鎌倉時代】侍所別当の和田義盛謀反、義時侍所別当に
西暦1213年(鎌倉時代)、建保1年に初代侍所別当の和田義盛が北条義時の挑発を受けて挙兵し、敗死してしまいました。その後、義時は侍所別当を兼ねるようになりました。北条時政、義時の一生は、北条家の権勢を幕府内で磐石のものとするため、有力な対抗勢力を次々と消していく、まさに「血塗られた」権謀術数に費やされていきました。
【日本の歴史 鎌倉時代】再び実権を 承久の乱起こすも後鳥羽上皇敗れる
西暦1221年(鎌倉時代)、承久3年に承久の乱が起きました。討幕の兵を挙げた後鳥羽上皇軍は敗れ、隠岐島に島流しされました。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、幕府の力を削ぐ事に失敗した結果、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになったりとパワーバランスが崩れ、朝廷の権力は制限されるようになりました。