【日本の歴史 室町後期~戦国時代】群雄割拠たる下克上の世を席巻した英傑たち まとめ
多くの武士から支持された初期の鎌倉幕府と違い、成立の過程から既に室町幕府は脆弱な組織でした。主な勢力範囲が畿内・京都周辺に限られていた事、無謀な税を民衆に課した事で市井経済が著しく疲弊した事、さらには諸国に配置した守護・管領職に権限を持たせすぎた結果、有力武将が大名化するほど大きな力を持ってしまった事等が理由ですが、同時に各々が覇を唱える、後の戦国時代に至る原因を作ってしまったのです。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】血で血を洗う応仁の乱
西暦1467年(室町時代)、応仁1年に応仁の乱が起こりました。8代将軍足利義政の後継者争いが大きな原因となって発生し、約10年にわたって続いた内乱です。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部を除いて全国に戦火が拡大しました。この影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけになりました。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】近江坂本の馬借一揆
西暦1472年(室町時代)、文明4年に近江坂本の馬借一揆が起こりました。馬借とは主に平安時代から戦国時代にかけて活躍した、馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者の事を指します。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】戦国の世の幕開け
西暦1477年(室町時代)、文明9年に応仁の乱は終結しましたが、戦乱によって京都は焦土と化しました。この結果、室町幕府は完全に勢力基盤を失い、滅亡の道を突き進む事となります。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】一揆の頻発
西暦1480年(室町時代)、文明12年頃、応仁の乱の痛手はなかなか払拭できず、特に生活の糧である田畑を戦乱で奪われた農業経済の疲弊は著しいものになりました。各地に一揆が起こったのは当然の成り行きでした。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】対馬宗氏、朝鮮と交易開始
西暦1512年(戦国時代)、永正9年に対馬を統治する宗氏が朝鮮と壬申約定を締結しました。対馬はこれ以降、しばらく朝鮮半島との交流・交易の窓口になります。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】両雄の因縁の争いはここから始まった
西暦1528年(戦国時代)、享録1年に細川・大内の使者が明の寧波で争う事件が起こりました。大内義隆が家督を継いで以来、大内氏は勢力を拡げて西国一の戦国大名になりましたが、明との交易を独占しようと細川氏と争っていたのです。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】石見大森銀山開発
西暦1533年(戦国時代)、天文2年に石見銀山の本格的な採掘が稼動しました。最盛期、日本は世界の銀の約3分の1を産出したと推定されていますが、産出量に関しては石見銀山がかなりの部分を占めていたという話です。戦国時代だけでなく、江戸時代前期においても国の経済を支えました。現在、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】有力武将武田・上杉両雄の5度の激突、川中島
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】イエズス会の布教進む
西暦1557年(戦国時代)、弘治3年には「豊後府内にイエズス会の病院設立 蒲生範清降る」が起こった。出典:日本史総合図録,図説日本史,日本百科大事典
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】織田信長を世に知らしめた桶狭間の戦
西暦1560年(戦国時代)、永録3年には「桶狭間の戦 信長今川義元を破る ポルトガル船2艘島津領に来航」が起こった。出典:日本史総合図録,図説日本史,日本百科大事典
【日本の歴史 室町後期~戦国時代】中国地方の剛勇、毛利元就の基盤固め
西暦1566年(戦国時代)、永録9年には「尼子義久、毛利元就に降る 伊東義祐、三の山で義久・義弘と戦う」が起こった。出典:日本史総合図録,図説日本史,日本百科大事典