【日本の歴史 鎌倉末期~室町時代】内乱と開花した武士の雅な文化と一揆の嵐 まとめ
北条得宗家による支配が衰えを見せる中、鎌倉幕府を倒幕した後醍醐天皇は、天皇親政による建武の新政を始めました。ところが武士層は冷遇され、公家に対する不信感を募らせた足利尊氏は、再び政治の実権を武士の手に取り戻し、室町幕府を開く事になりました。その後、後継者争いによって皇室は2つに別れ、それぞれが有力武将を取り込む形で血統の正当性を主張する、南北朝時代が幕を開ける事になりました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】事前に情報がリークされていた正中の変
西暦1324年(鎌倉時代)、正中1年に正中の変が起こりました。後醍醐天皇による討幕計画が六波羅探題によって事前に察知され、土岐頼兼や多治見国長、側近の日野資朝など首謀者が処分された事件です。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】後醍醐天皇、元弘の変によって念願の倒幕を果たす
1318年(文保2年)、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府打倒を企む後醍醐天皇が即位しました。1324年(正中元年)の正中の変は六波羅探題によって事前に察知され、後醍醐天皇は幕府に赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪になりました。ですが、後醍醐天皇は処分を免れた側近の日野俊基や僧文観らと再び倒幕計画を進め、西暦1331年(鎌倉時代)、元弘1年に元弘の変を起こし、政変を成功させました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】頓挫した建武の新政と相次ぐ土一揆の発生
西暦1331年から1333年の短い期間、一時的ですが政治の実権が皇室に戻りました。理想として掲げた建武の新政を開始しましたが、元弘の乱の論功行賞において、天皇側近が優遇されたのに対して、足利尊氏や赤松則村をはじめ多くの武士は極めて冷遇されました。その結果、武士層からの支持を失い、やがては尊氏の離反や室町幕府の成立へと結びついていきます。
そんな世情を反映したのか、西暦1354年(南北朝時代)、正平9年に近江地方で土一揆が、約70年後の西暦1428年(室町時代)、正長1年には徳政令を含んだ徳政一揆が発生しました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】足利義満、日本初の官邸を建造する
西暦1378年(南北朝時代)、天授4年に室町幕府3代将軍足利義満は室町に花の御所を建造し、移り住みました。花の御所とは足利家代々の将軍が住み込んだ、広大で豪華絢爛とした邸宅の事を指します。今風に言えば総理官邸に相当する建造物です。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】義満が狡猾な手段で政敵を討ち破った明徳の乱
西暦1391年(南北朝時代)、元中8年に明徳の乱が起こりました。山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱で、義満の策謀と挑発に踊らされた山名一門は結果的に敗れました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】守護大名が起こした政変、応永の乱
西暦1399年(室町時代)、応永6年に応永の乱が起こりました。クーデターの首謀者は守護大名の大内義弘で、室町幕府に対して反乱を起こし、堺に篭城したものの力及ばず敗死した事件です。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】足利義満、 明の要請を受けて倭冠対策に乗り出す
西暦1402年(室町時代)、応永9年に足利義満は明の要請を受けて朝鮮(高麗)や中国(明)の沿岸部一帯を荒らしまわる海賊の倭寇対策に乗り出しました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】応永の外寇
西暦1419年(室町時代)、応永26年に李氏朝鮮によって対馬が攻撃された事件が「応永の外寇」です。こうした他国からの侵略を受けるようになった背景には猛威を振るった倭寇の衰退がありました。その後対馬は日朝貿易において朝鮮との唯一の窓口になりました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】播磨の土一揆
西暦1429年(室町時代)、永享1年に播磨地方で土一揆が発生しました。15世紀に入ると農民による土一揆、徳政令を求める一揆などが多発し、世情は不安の真っ只中にありました。
【日本の歴史 南北朝・室町時代】嘉吉の乱により足利義教が死ぬ
西暦1441年(室町時代)、嘉吉1年に嘉吉の乱が起こり、播磨の守護大名赤松満祐は6代将軍足利義教を暗殺しました。その後、領国の播磨で幕府方の討伐軍に敗れてしまった政変を指しています。